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2008年6月27日 (金)

朝日新聞コラム「素粒子」をめぐる反応

 6月18日の朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」に鳩山法相の死刑執行を揶揄する文章が載った。将棋の「永世名人 羽生新名人」や国土交通省の「永世官製談合人 品川局長」と並べて、「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神。」と書いた。短いコラムだから、これに「わが意を得たり」とニヤリとする人もいれば、違和感・不快感を覚える人もいるだろう。コラムというものは元々そういうものである。このような寸評形式には問題があるという議論も以前からあるようだ。
 しかし、そうした議論とは別に、このコラム記事をやや感情的に非難する二つの反応があった。一つは当の鳩山邦夫法務大臣による6月20日の閣議後の記者会見、もう一つは「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の6月25日付の朝日新聞社への「抗議及び質問」である。
 鳩山法相は6月20日の記者会見で、「極刑を実施するんだから、心境は穏やかではないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」と語り、「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒げ、さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う。軽率な文章が世の中を悪くしていると思う」と語ったそうである(共同通信)。
 しかし、この非難の論理は奇妙である。死刑囚にも人権があるのは当然だが、人権の最たるものは生命権である。「再審を受ける権利」や「死刑の意味を理解できないまま執行されない権利」、「家族・友人と最後の別れをする権利」も死刑確定者の重要な人権であろう。それらをすべて奪った張本人が、「死刑囚が『死に神に連れて行かれた』と言われない権利」を机をたたいて力説するとは、何と奇妙な光景か。
 鳩山法相が反論するなら、国際人権法からすでに否定されかかっている死刑制度の存在を根拠に、13人の人間から最高の人権である生命権をあえて奪った、その実質的な正当化理由を述べるべきであった。死刑執行が正当化されるのは、殺人などの被害者に加害者の死を求める権利があるからなのか、死刑に犯罪抑止力があって将来の多数の生命を守るためにやむを得ないからなのか、それをこそ語るべきなのだ。「法律の規定」だけでは、到底、正当化理由にならない。「悪法も法なり」と言って毒杯をあおったソクラテスに感心する人はいても、「悪法も法なり」と言って他人を殺す人に感心する者はいない。
 鳩山法相は「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもある」と述べているが、実際には自分が「死に神」と言われたことに怒っているだけなのではないか。その自分の怒りを正当化するために、事もあろうに自分が命を奪った「死刑囚の人権」を持ち出すとは、何ともおぞましい限りである。「苦しんだ揚げ句に執行した」と言うが、本当に苦しみ悩んでいる人が、2カ月に一度のペースで「ベルトコンベヤー」のように死刑執行できるものであろうか。
 他方、6月25日の「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の「抗議及び質問」には、「確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族は、法相と同様に死に神ということになり、死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない」と書かれているという(産経新聞)。
 これも奇妙な論理である。果たして、死刑事件の被害者遺族のすべてが「確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた」のであろうか。殺人事件などの被害者遺族のすべてが死刑を肯定しているのだろうか。日本でも再審で無罪となった死刑確定者が過去4人いる。志布志事件や氷見事件に見られるように現在でも冤罪事件は跡を絶たず、死刑確定事件でも冤罪の疑いのある事件がある。これらの死刑確定者の「1日も早い死刑執行」を犯罪被害者遺族のすべてが本当に待ち望んでいるのであろうか。異常な数の死刑執行を行い続ける法務大臣を批判することが、どうして犯罪被害者遺族を「法相と同様に死に神」と呼ぶことと等しいのか。全く理解できない。
 殺人事件などの被害者遺族がその加害者を憎み、「被害者と同様の苦しみを味わせたい」と思う感情は理解できる。その気持ちが「極刑を望む、死刑を望む」という言葉になって出たとしても、理解できないではない。しかし、人々が理解するのはその感情であって、その論理や主張そのものではない。自分の家族や恋人を殺された遺族がその犯人に対して「極刑を望む」という感情は人々に理解されても、およそ殺人事件の加害者全員は「1日も早く死刑執行」すべきだという主張が、批判なしに受け入れられるはずもなかろう。
 たとえ相手が凶悪事件の加害者であろうと、他人の死を望むことが「良いこと」であるはずがない。たとえ死刑事件の被害者遺族であろうと、他人の死を求める権利はないと私は思う。まして、自分と無関係の事件の加害者の死を求める権利などあろうはずもない。また、加害者に対する「死刑」「極刑」という社会的評価を望む感情と、死刑執行(現実に加害者を殺すこと)を望む感情とは大きな違いがあると思う。
 「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の「抗議と質問」は、「(犯罪被害者遺族がその加害者の)死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない」ことへの危惧を超えて、現実にはむしろ、「死刑執行を批判する者は犯罪被害者遺族に敵対する者」という逆の誤ったメッセージを発することになってはいないか。
 今、私たち市民が真に危惧し憂慮すべきなのは、鳩山法相の連続的な死刑執行が日本社会と国際社会に向けて発している、それこそ誤ったメッセージである。鳩山法相が2カ月間隔のペースで死刑執行を行い、それを国会やマスコミに対して「正義の実現」と胸を張り、執行された死刑囚がいかに「生きるの値せず」「死すべき人間だった」かを得々として語ることが、「殺人も国家が行えば肯定される」「殺人が正義になる場合もある」「人は他人の命を奪う権利を持つ場合がある」という強烈で誤ったメッセージを日本の社会に向けて、未来を担う子供たちに向けて発していることである。
 その行き着く先は、人の命が軽ろんぜられ、犯罪被害者を含むすべて人々の人権が軽視され、貧困や犯罪やあらゆる社会問題もすべては個人の自己責任とされ、「犯罪との戦争」や「正義の戦争」が称揚される殺伐とした社会であろう。この流れは、何としてもストップさせねばならない。

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